夏虫の声が聞こえる。


ジ、ジジ、ジジ――――――、ジジジジジジ――――



明るい夜だ。
月の光が腐りかけた柔らかい木の窓格子から差し込んで、穴の開いた床に光のいびつな長方形が3つできている。
私はそっと夜着から這い出し、窓に近寄った。
夜露で濡れた格子が、つん、と臭う。
私は、この匂いがそんなに嫌いではない、と、思う。
京の夏の夜の空気を、胸いっぱいに吸い込む。
夏の夜の香りというのは、どうしてこんなにも美しいのだろう。
酷い夕立が過ぎた後だが、今夜はさほど蒸し暑くない。
いや、蒸し暑い事は蒸し暑いのだが。さほど、だ。
ぬるい、湿気た風が、頬にまとわりつく。

ざわざわ、ざわざわ

格子の間から見える川岸の、この小屋を覆い隠すように伸びている丈の高い草の原が、海のようにうねる。
ちょうど窓から見える月は満月で、空の上は湿気が高いらしく、墨を流したような夜の真ん中、水蒸気による虹色の輪を広げつつ、煌々と光っていた。
明日は雨になるかもしれない、だけど、

今夜は散歩日和だ。

足音を立てないように(至難の業だ、このあばら家のところどころ腐って穴の開いた床板は少しの重みでひどく軋むから)戸口に忍び寄り、まとめておいた荷物を掴む。
引き戸に手を掛けたところで、ぎぃ、と私の背後の床板が軋んだ。
仕方なく私は、背中を向けたまま動きを止める。


「行くのか、


闇と闇の間に、つるりと滑るように音が流れる。
水もしたたる、とはよく言ったもので、彼の声は、水もしたたるいい声、だと何度も思ったものだ。
水のようにしたたって、耳の奥に、じわりと広がる。耳から頭へ、心臓へ、じわりじわりと染み込んでいく。
したたる、と口に出してみる。
したたる。柔らかい水が湛えられた湖を思わせる響きだ。
高杉の声に相応しい。

囚われたのだ、この声に。
長く、永く、囚われすぎていたのだ。


「うん、行くよ」


でも、離れなくてはならなかった。
理由は簡単で、鬼兵隊が爆破した高層ビルの上方からちょうど私の目の前に降って来た、肘のところでちぎれた腕が、私の肩から生えている腕についているのと同じ、見慣れた飾りをつけていたからだ。
それとも、それを見たから、か。

ちゃりん

私の手首で、二連になってしまった腕飾りが冷たい音をたてる。
忘れるな、と鳴いている。

村の婆に、特別に作ってもらった飾りだった。
私が村を出る時、離れてもずっと一緒だからね、と陳腐な約束をして、友人と二人で、特別に作ってもらった。
陳腐だったけど、そのときの私には唯一だった。

ちゃりん


「そォか」

「うん」

「達者でなァ」

「そっちこそ」


自覚の足りなかった私が、友人と連絡も取っていなかった私が、高杉以外見えていなかった私が、全て全て私だけが悪いのだけど。
高杉がそれを気にしようが気にしまいが、私がそれを許そうが許すまいが、世の中の倫理と言うものは、私がこれ以上高杉といることを、許してはくれないらしい。


立つのは夜だと決めていた。
今日は満月で、夜空はぺかりと晴れていて、それがいい。
夜陰に紛れるように去りたいわけじゃない。
涙を隠したいわけじゃない。

夏の夜は、高杉のようだから。色も、香も、手触りも、雰囲気も。
夜歩きは、高杉が隣にいてくれる気がするから。
月が明るければ明るいほど、高杉の微笑がよく見える。

離れてしまったことを、朝が来るまでの間、忘れていられるだろう。


「今日は、晴れたから」

「あァ」

「いい天気だから」

「あァ」

「ばいばい」


私は振り向かないまま、言葉を紡いだ。
短く切られた相槌が、私の背中にいつもより何倍も優しく当たって、染み込む。
優しすぎる声色。

締め付けられるように痛い。
手放したくない。
何もかも。

本当は、頷いて欲しくなかった。

なんで。
なんでこんなに、苦しいのか。

苦しいけど、心地よい。
束の間の心地よさ。
高杉の優しい声。
優しすぎる声。


胸が詰まる。
私は一呼吸、目蓋を降ろした。

高杉が、愛しい。


狂おしいほど、に。


「高杉」


声が震えないように、お腹に力を込める。
相手に聞こえる場所で、名前を呼ぶのは、きっとこれで最後。


「高杉、大好きだったよ」


がさり

くさむらに足を踏み出す。
むき出しの脛に、草が冷たい。
おそるおそる月を見上げた。
月も濡れている。
したたっている。


「・・・だった、か」


高杉の声にうすくちいさく笑いが溶け込む。
笑っているのに、何故かその声は酷く寂しそうに夜の闇に滲んだ。

にじんでとけた声さえつかまえたい。すがりたい。だきしめたい。
離したくない離れたくない。
後ろ髪が引かれる、とはこのことか。
そう、まさに、髪が引かれるように、足が止まりそうになる。
いやだ。
もういやだ。


声に少し遅れて、高杉の手が私の肩に当たる。
あ、と思う前に、軽く肩を引かれ、背中を高杉に包み込まれた。
高杉に触れられるたびに、この、人形のように美しい人にも、体温があるんだ、と思う。
私のものと違う、ぼわっとした熱が私の背中に広がる。
私は前に回った高杉の、私のなんかよりずっと派手な女物の着物が掛かった白い腕を、ぼんやりと見下ろした。


「高杉、暑い」


暑いといったのに、体に回った腕に力がこもる。
しめつけられて、少し苦しい。


「今日は止めとけ」

「なんで」

「・・・雨が降ってる」


耳の中に吹き込むように高杉が囁く。
ひたひた
ひたひた
高杉の声が私の中にひたひたと満ちる。チルチルミチル。


「またいつかにすればいい」

「・・・・・・」

「雨が降ってないときにすればいい」


私はもう一回月を見上げた。
潤んだ月は、けれども、艶やかに明るい光は翳ることなく、月から離れた暗い澱みでは、ちかちかと星が光っている。
足の指を動かすと、下駄の鼻緒が夜露でぐっしょり濡れていることに気付いた。
たっぷり湿気を含んだ生暖かい風が川岸をまた撫でる。

ざわざわ ざわざわ

重たげに柔らかに唸る草の海の中で、夏の虫は鳴く。


じ、じじ、じじ――――――、じじじじじ――――


虫の声さえしっとりと湿って聞こえた。
もったりと空気が動く。
は、と息をついて、す、と吸い込んだ空気は夏の麦茶のようで。

明日は雨になるだろうに。


空の端っこに、雨雲のひとつくらい見えても、いいんじゃないか。






私は眼を凝らす。















「降水確率、100%」summer ave.様提出/20090614空野蛙