語【いざ、しょうぶ!】






(―――もしもの話。もしも笹塚さんに大切な人が居たら。もっと違った未来が)





そのひとは、いつもくたびれた背広を着ていて、ひどく所帯じみているようで、変に現実離れしたような人だった。
たこわさを手渡すその瞬間だけは少し嬉しそうな気配みたいなものは発していたような気がするけど、ずっと何か違うことを考えているような、人とは違う何かを見ているような人だった。
最初店に来た時は、『あ、いい男だな』と思いはしたけれど、あまりにもこちらに興味がなさそうで、視線すら交わらなかったので完璧脈なしの部類と見て、さっさと記憶から消去したおぼえがある。
二回目に買いに来た時、この人はもしかすると常連さんなのかもしれないと思って店長に訊ねると、よく来てくれると言った。
五回目か六回目に会った時だろうか、こんなに顔を合わせているのに微塵も興味を示されないことを悔しく思って、少しマニュアルに手を加えた。

「いつもお買い上げいただき、ありがとうございます。うちの店のたこわさ、美味しいですよね」

仮にも男をひっかける言葉として『たこわさ美味しいですよね』は酷いと思うが、その人の興味を引くのはそれくらいしか思いつかなかった、というより、思いつくはずもないのだ。
私はデパ地下の惣菜売り場の店員で、彼は客で、それしか接点がないのだから。
彼はやっと私の顔に焦点を合わせ、表情をほとんど変えないまま、

「・・・美味しいです。今気に入っている酒に一番良く合うんです」

と答えた。
永久に酒を変えてくれるなと思ったけれど、ずっと長いこと来てくれているのだったら、もしかするとずっと酒の銘柄も変わっていないのかもしれない。
それより、いつも「たこわさ一つ」としか言わないその人の初めての長いセリフを聞いて、私はすこし感動しすぎていた。

「ありがとうございます」

マニュアルどおりの答えしかできないほどに。
笑顔は、マニュアルどおりに出せたけれど。

(すきなのかも、しれないな)

ひょっとすると、ものすごく。


そこからは谷に転がりゆく石の如し、だった。
おろおろするほど、恋をした。
会話は、できるようになった。
名前を聞いた。
趣味も聞いた。
職業を聞いたときには、笹塚さんは、ああと言って「こーゆーもんだけど」と背広に手を突っ込んで警察手帳を出し、店長のおばちゃんが驚いて「ちゃんあんた何やったの?!」と囁いたのが可笑しかった。
例の気に入っている日本酒の銘柄も聞いた。買ってみて、飲んでみて、なんとなく空しい気分になった。酒に嫉妬する自分、なんて。

ちゃん」

店長のおばちゃんが呼んでいるのを聞いて、笹塚さんもそう呼んでくれるようになった。
ちゃんなんて、くすぐったい。
すこし、恥ずかしい。
店長は別だ、だってまるで近所のおばちゃんのように私に接してきてくれたから。

ちゃん、たこわさ」

いつもの注文、自分の名前が前につくだけでぎゅうっと苦しくなる。その苦しい中で頑張って綺麗に微笑んでみせる私に自己嫌悪。悲劇のヒロイン気取りか。

「こんにちは、笹塚さん」

返す言葉を見つけた。やっと。
返す笑顔も笹塚さんのためだけのもの。マニュアル以上の、特別。
そのことが、こんなにも、嬉しい。


ある日、店長のおばちゃんが気を利かせてくれた。

「笹塚さん、私、これから上がりなんです。途中まで、ご一緒していいですか?」

それが、そんなに図々しくないお願いでないほど、親しくなった日のことだった。
笹塚さんは、驚きもせずに、軽く頷いた。

笹塚さんの隣で歩く街は、何もかも違って見えた。
街路樹が、ビルの明かりが、走っていく子供が、すべて愛おしい。
嬉しい私の邪魔をしないものなら、すべて特別。

ちゃんは、バイト?」

そう聞いてくれたのが、笹塚さんが私に興味を示した、一番最初だった。
おそるおそる私のことを少し話して、笹塚さんのことをたくさん聞いて、そしてわかった。

笹塚さんはやっぱり、この世じゃないところを見ている。

私以外の女の人でも、ペットでも、何か夢中になれる趣味でもない。どこか上の空なのは、本当に空を見ているからだ。
私は軽く絶望した。ぽっかり開いた穴に叫んでいたような気がした。今更何をしてものれんに腕押しのような気がした。
店長のおばちゃんにそういったら、「糠も、いつかは板に変わるかもしれない」と言われた。かえって絶望的に思えたけれど、店長はさらに励ましたくれた。

「あんたならできるかもしれない。昔から、一番強い魔法は真の愛だと決まってるんだから」

最後の方はくすくすと笑いながら言った店長に、真の愛ですかあ、と私は繰り返した。そんなのは御伽噺のなかにしかないようなもの、一般人である私には無縁なものだと、ずっと思ってきた。
笹塚さんの心は、囚われのお姫様。それを救い出しに行く勇者、
ひとつ厄介な事がある。お姫様はどうやら、怪物にぞっこんであるらしい。

「笹塚さん」

名前を呼べば、私の顔を見てくれる。話を聞いてくれる。頷いてくれる。
笹塚さんを楽しませるために必死になった。認めてもらおうと必死になった。
何度か、笑わせることに成功したように思う。

それでも、どうあっても、最終的には笹塚さんの目は私でない何かを見ていた。
ちらりとこちらを見ることも、しばしばあったのだ。それでも最終的には、お姫様は怪物にぞっこんで、平民出身の勇者なんぞ目にかけてもらえない。
しかし、感情的にはこのまま怪物呼ばわりしていきたいのだが、笹塚さんの大事なものをそんな風に呼ぶわけにはいかない、だから今からそれを、「それ」と呼ぶことにする。


知り合って一年くらいたったある日、たこわさを買いに来た笹塚さんは、疲れているようだった。とても疲れていて、すこし悲しそうだった。
私は、昨日友達と恋バナの後ではしゃいで買った笹塚さんとお揃いのペンダントを後ろめたく思った。

「笹塚さん、お疲れですね」

それでも、言った言葉が笹塚さんの表面を滑ってなくなってしまうのはいやで、笹塚さんの目を、見る。

「・・・そう?」

見返してくれた笹塚さんの目が、珍しく揺らいでいて、私は『あ、チャンスだ』と思った。不謹慎にも。『今しかない』とも。
今、笹塚さんは、「それ」から目を逸らしたがっている。
本当は堂々と勝負して「それ」に勝ってからでないと笹塚さんを手に入れたとは言えないのだろうとわかっていた。でも、笹塚さんが目を逸らすことができたら。蓋をして生きていくことができたら。すこしずつ私は、「それ」に勝っていくことができるんじゃないだろうか。

「私は、笹塚さんのことが必要なんです」

そういいながら、ペンダントを取り出す。『誰にも負けないくらい、必要なんです』と、強く思って。






笹塚さんの振り子は、こっち側に振れてくれた。
私は、少しずつ、少しずつ「それ」に勝っていった。
小さな勝利を積み重ねて、最初「それ」を忘れたフリをしていた笹塚さんは、「それ」よりも私のことが大切だと思ってくれるようになったらしい。

この私のことが!

私といる時、笹塚さんは時折、思い出したようにばつが悪そうにした。
特に、幸せな気分でいるときに。
そういうとき私は言った。

「私、思うんです。今って、本当に、正しいときですよね」

笹塚さんは私に尋ねた。

「破ってもいい約束って、あると思う?」

私は勢い込んで言った。

「約束なんてね、破るためにあるんですよ」

や、それは言いすぎですけど、と小さく付け加えると笹塚さんは笑ったけれど、今考えるとあの答えは正解だったのかもしれない。




「あ、笹塚刑事!」

呼んで笹塚に近寄ろうとしたネウロの袖を弥子は引っ張ってとめた。

「なんだヤコ」
「ネウロ、笹塚さんの顔見て」

笹塚は女の人と歩いていて、その人の言ったことに微笑んでいるようだった。
記憶にあるかぎり、弥子は笹塚のあんな顔を見たことがない。

「少なくとも今、笹塚さんは復讐のことなんてこれっぽっちも考えてないよ・・・」

少なくとも今は、シックスの話なんか笹塚に聞かせることはないと弥子は思った。

「そんなものか?」

ネウロが首を捻る。笹塚の復讐に対する気持ちが弥子が考えているよりずっと深いものであることを、この魔人は本能で感じ取っていたのかもしれない。弥子は、今やっとわかった。笹塚は、微笑む事をしないくらい抱え込んでいたのだと。そして束の間かもしれないが今、やっと自由になっているのだと。過去から、解き放たれているのだと。

「ほら、今の笹塚さんならきっと大丈夫、ちゃんと私たちに相談してきてくれる。私たちと笹塚さんと警察が一緒になれば絶対シックスなんかに負けないよ」
「だから今話し合えばよいではないか」
「馬鹿、とんだお邪魔虫になっちゃうでしょーが!」
「フハハハハだれが馬鹿だと?」
「イタタタタタタ首がもげる首がァァァァ!!!」



笹塚さんと約束の話をした次の日、笹塚さんは朝私を訪ねてきて、わざわざ行ってきますを言って行った。きっとこれは大切な儀式なのだと、私は心を込めて「行ってらっしゃい気をつけて。早く帰ってきてくださいね」と言った。
その日の昼、今話題の女子高生探偵と、背の高い青い背広のツートンカラーの髪の男の人と、包帯を巻いた体の上に派手なアロハを羽織った怖そうなおにいちゃんと、それから警察の人が大勢どやどやと私のうちにやってきた。何事だと驚いていると、警察の人たちの中から、小さくて偉そうな人がカツカツと歩いてきて言った。

「笹塚は、借りていく」
「は?」

私はその人のぶしつけな口調に呆気にとられて、それに、何のことか分からなくて間抜けな返事をして、そうすると女子高生探偵さんが口ぞえをした。

「笛吹さん、それじゃなんのことか分からないですよ」
「分かったほうがいいとのか?」
「私達全員で掛かれば、確実とまで言わないですけど、かなり安全ですよ。この人くらいには言ったほうがいいんじゃないですか?」
「笹塚から口止めされている」
「もう、笹塚さんは・・・」

私抜きで話が進んでいく。
笹塚さんの名前が出たので、必死で食いつこうとすると、警察の人と探偵さんが同時に私を振り向いた。

「とりあえずさん、あなたには感謝したい」
さん、本当にありがとうございます!」
「こちらとしても、本当に助かりました」

青い背の高い人も口を開いた。
それにアロハの兄ちゃんがかぶせる。

「てめーらが思ってるよりずっと、このねーちゃんはすげぇことしたんだからな、精一杯感謝しとけよ」
「吾代さんに言われなくても分かってるよ!」
「いーや!てめーらは分かってねー」
「まったく、なんでこんなチンピラと作業をしなくてはならないんだ」

なんでこの人たちみんなが私の名前を知ってるのだと思いながら、やっぱりよく分からないが、この人たちはみんな、笹塚さんの知り合いらしいと思った。そして、今日笹塚さんが行ってきますと言って向かった場所に、きっと一緒に行くのだと。

「笹塚さんをよろしくお願いします」

私が頭を下げると、一拍おいて警察の人全員が「こちらこそ!」と頭を下げたのが可笑しかった。笹塚さん、慕われてるんだなぁ。


プルルルルル・・・
その日の夜中、笹塚さんからの連絡を待って起きていた私は、電話の音に飛びついた。

「はい」
「笹塚だけど」

途端に緊張がぐわりと崩れたような気がして、私は自分で気づかないほど心配していたのだなと思い知る。

「今、病院にいる」

来てくれないか、の言葉が終わる前に、私は車のキーを掴んで飛び出した。


病院のベッドの上、ぼろぼろになった笹塚さんは、「婚約指輪」と言いながら、私の誕生石がついた指輪をくれた。
こういうの、よくわからなくて、と少し照れたような声で呟いた笹塚さんを私は信じられない思いで見つめた。
本当に私が勝ったなんて。
信じられない。

そうして、笹塚さんの体をもう一度じっくりと眺めて、私は「殴ってもいいですか?」と言った。
笹塚さんは「うん、いーよ」と言って、声を出して軽く笑った。




ぱぱぱぱん、ぱぱぱぱん、ぱぱぱぱーんぱーんぱぱんぱんぱんぱんぱーんぱーんぱぱーん
荘厳なパイプオルガンが鳴り響く。
私は結婚式なんて本当はしたくなかったのだけれど、それにキリスト教徒でも全くないのだけれど、結婚という事実を一番実感できるのは結婚式で、この結婚行進曲だろうと思ったから、結婚式を、教会ですることにした。
いまだ存在し続けてはいる笹塚さんのなかの「それ」に、勝利宣言をするつもりだった。大声で。
そうそう、結婚するとなったときになって、私はやっと「それ」の正体を知った。笹塚さんは、ちゃんと説明してくれた。ちゃんには、知っておいて欲しかったから。そう言って真面目な顔で話してくれる笹塚さんは、しっかりと私を見ていた。
だから、今から「それ」といわずに「皆さん」と呼ぶことにしようと思う。

「・・・誓いますか?」

神父の声がどこか遠くの方で響き、私はしっかりと笹塚さんの目を覗き込む。
ちらりとよぎった「皆さん」のまなざしを捕まえて、私は語りかける。

『笹塚さんは私がいただきました。もう絶対に返しません!』

目の端に弥子ちゃんと吾代さんと脳噛さんの探偵ご一行様が見える。三人とも楽しそうで(特に弥子ちゃん。このシチュエーションで肉を手づかみできる招待客はそうそういないと思う)良かった。
微笑む筑紫さんの横で、笛吹さんが涙を拭っている。匪口さんがそれをからかっている。石垣さんのは男泣きと言わないだろう、「せんぱぁぁい」と咽びながら等々力さんに取り押さえられている。

私はそっちの皆さんにも宣言する。

『笹塚さんは私がいただきました。ありがとうございます』


今度はしっかりと、笹塚さん自身の瞳を捕らえて、後はもう、自分に誇れるのは「真の愛」だけだから(笑っちゃいそうになるけど)、それを一杯に注ぎ込んで。

「はい、誓います」


・・・ああ、今ならやっと、みんなが結婚式をしたがる理由が、分かる気が、する。













終【おわり】

空野 蛙【そらの かえる】
平成二十一年十二月二十日【2009/12/20】  
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